2017.4信州の名城と桜 車中泊で取材旅2 ~上田城と松代城~

早朝に満開の上田城の撮影に成功した筆者は、その足で松代に向かった。だが、またしても桜は未開… 松代ではまだ三分咲きにも至らない程度だ。ただ、既に満開の松代城は手中にある(笑)。

そこで、今日は少し「お城」の話をしたいと思う。

川中島の古戦場からほど近いところにある松代城は、かつて海津城と呼ばれた武田軍の拠点城郭で、信濃への侵攻を開始した武田信玄が、それを阻止すべく動き出した上杉謙信を牽制するため、大河ドラマ・風林火山の主人公で有名な「山本勘助」に命じて築城させたと云われている。

武田家が滅んだ後、海津城は城主を転々と変えるが、1615年に大坂夏の陣が終わり、徳川の世が安定を迎えた1622年、真田幸村こと信繁の実兄・真田信之が上田から13万石で入城し、以後明治維新まで真田氏の居城となった。

ところで。筆者はお城めぐりの妙味は、建築や構造よりも「エピソード」にあると思っている。

その観点に立つと、上田城と松代城は実に興味深い関係にある。上田城絡みの話は大河ドラマ「真田丸」で、その大半が紹介されたが、ここではそれを超ダイジェストでまとめてみた。

武田信玄の死後、混迷を極めた北信濃を上杉の脅威から守るには、上田に本格的な城を作ることが急務であった。幸村の父・真田昌幸は、それを当時の盟友・徳川家康に進言し、家康はその話に乗った。結果、上田城は徳川が建設費用を負担し、真田昌幸の設計・施工で築城され、真田軍がそこに進駐するということになった。

しかし築城後に織田信長が本能寺で討たれ、信濃の勢力地図が様変わりする。
家康は明智を倒して急速に勢力を伸ばす豊臣秀吉との戦いに備え、昌幸に無断で真田が支配していた沼田城を上杉に譲渡することで和睦を図り、背後の憂いを除こうと画策するが、
それが火種となって真田と徳川の第一次上田合戦が勃発する。

この戦いで、戦上手な真田昌幸は上田城の強みを存分に生かし、圧倒的多数の徳川勢を撃破。真田昌幸の名は、一躍全国に知れ渡るところとなった。

その後、秀吉が天下統一を果たし、徳川も真田も豊臣の家臣として一時落ち着き、特に信繁(後の幸村)は秀吉や石田三成の寵愛を受けることになる。いっぽう兄の信幸は、豊臣政権を支える五大老の一人となった徳川家康に目をかけられ、重臣・本田忠勝の娘・小松姫を、家康の幼女として妻に迎えた。

だが、見せかけの平穏はそう長くは続かなかった。秀吉の死後、満を持して家康が動き出し、いよいよ関が原の合戦が迫る。そして真田親子は俗に云う「犬伏の別れ」で、昌幸と信繁が豊臣、信幸が徳川につくことを決意する。

昌幸と次男の信繁は上田城にこもり、関が原の合戦前に家康の嫡男・秀忠との第二次上田合戦を制し、再び徳川に苦杯を舐めさせたものの、対局に影響はなく天下分け目の決戦はわずか1日で東軍の勝利に終わった。

とまあ、大半の真田家に関する記述はここらで終わる(笑)。確かに判官びいきで派手な話ゆえに、そうなるのはよく分かるのだが、実は、この時の秀忠の遺恨が、のちの真田家松代転封の背景にあるとも云われているのだ

ちなみに、家康は関が原の合戦前に味方になることを決意した真田信之に、上田の所領安堵を約束したが、「上田城」はその例外とされ、関が原の合戦のあと、この因縁めいた名城は徳川の手で破却された。

だが真田信之が偉かったのは、その後だ。彼は破却された上田城を再建せず、あえて砥石城で暮らし、徳川秀忠を一切刺激する行動をとらなかった。そのため秀忠も家康が生きている間は、真田に手出しをする機会を得られなかった。

真田家が松代に転封されるのは家康の死後。一応名目は13万石への加増であったが、当時の松代城は水害に弱く、けして住みやすいところではなかったようだ。

それでも真田家は、昌幸の嫡男・真田信幸こと「信之」が、こうしてしぶとく生き延びたことで、その後松代の地で10代にわたって続く繁栄を遂げ、幕末には坂本龍馬や西郷隆盛らに大きな影響を与えた佐久間象山を輩出している。

真田家の歴史を本当に知りたいのなら、上田や真田の郷よりも松代に行かれることをお勧めする。

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