「敵に塩を送る」は、川中島古戦場に潜むエピソード 

御開帳で賑わう善光寺を出て、川中島古戦場に向かった。古戦場の八幡原を含む松代周辺は、信州随一ともいえる歴史の舞台で、歴女さんには絶賛お勧めの旅先である。

実は川中島の合戦は5度にわたって繰り広げられている。なので簡略しよう。写真の上杉謙信と武田信玄の大将一騎打ちになったのは4度目の合戦時で、その時の様子は「三太刀七太刀」と語り継がれている。切りつけているのが戦の神様とも呼ばれる上杉謙信だ。

4013川中島2

大河ドラマ「風林火山」を見ていた人ならご承知の通り、この戦いで武田の軍師であった山本勘介は「キツツキ作戦」を展開するが、謙信に見抜かれ裏をかかれる。それが上記のピンチを招くのだが、結果は引き分けか武田軍の判定勝ちのように伝わっている。

写真は2013年秋に訪れた際に、実に面白おかしく説明をしてくれたボランティアガイドのおじさん。もう一度聞きたいと思って訪ねたが、残念なことに今回は誰もいなかった(笑)。

4013山本寛助

ちなみに、山本勘介は作戦失敗の責任を感じて敵陣深く切り込み、ここで命果てる。その墓はもともと南長野運動公園に隣接する勘介宮にあったが、今は別のところに移転している。

2013年にはそのお墓参りもしてきたが、探し当てるのに苦労した。もちろん探索は徒歩。往々にしてこういう際には、クルマが足手まといになる。

4013ピンチ

こんな感じでね(爆)。

ただし勘介宮跡には、クルマでも簡単に行ける。

勘助宮跡

たとえ歴史に興味がなくても、ここは覚えておくといい。
長野市内にもっとも近くて便利な車中泊スポットだ。

さて、ここからが今日の本題。
「敵に塩を送る」という諺が、この川中島の合戦に由来していることをご存知だろうか… 

首塚

海津城(後の松代城)城代であった高坂弾正は、合戦後に6千人とも呼ばれる両軍の屍を、敵味方区別することなく丁重に葬ったそうだ。古戦場に残る首塚がその跡とされるが、義に厚い謙信はそのことにいたく感動し、後年に今川家が武田家に対して、「塩止め」 を行なった際に、その時のお礼として武田家に塩を送ったという。その際の輸送ルートが、「塩の道」と呼ばれる千国(ちくに)街道である。

また川中島の合戦は、もともと北信濃を治めていた村上義清と信濃侵攻を図る武田晴信(のちの信玄)の戦いに起因している。村上義清は勇猛な戦国大名で、若き日の信玄は2度にわたって撃破されている。特に2度目の戦いは1200余名の死者を出し、のちに「砥石崩れ」と言い伝えられる記録的な大敗であった。

真田本城址

そのため信玄は作戦を調略に切り替える。そしてその期待に答えたのが、幸村の祖父にあたる真田幸隆であった。結果、村上義清は上杉謙信を頼り、領地奪回を夢見る。

大河ドラマ「風林火山」では、永島敏行が村上義清を、佐々木倉之助が真田幸隆を演じており、なかなか印象深かったが、2016年の真田丸では、はたしてここまで遡ってやるかどうかはわからない。

上田城

その後も真田家は信玄に忠義を尽くし、上田の所領を守り続けていく。真田氏が松代藩主となるのは江戸時代以降のこと。「関ヶ原の合戦」を境に2つの異なる歴史を抱える真田家は、確かに大河ドラマの素材にふさわしいのだろう。

加えて、脚本が三谷幸喜というのも楽しみだ。それにあの半沢直樹が真田幸村に扮してくれる。徳川家康にどう「倍返し」をするのか興味は尽きない。なんなら香川照之が家康役でも、筆者はいっこうにかまわないのだが(笑)。

最後に。
当たり前だが、歴史はつながっている。
ひとつの出来事を見ただけでは、なかなか興味は湧いてこないと思うが、前後のつながりを含めて探ると、どんどん面白みは増してくる。

歴史が好きか嫌いかは、たぶん中学・高校の先生の教え方に深い関係があるのだろう。「その時代に生きる人の気持ちになればわかる」と語った筆者の先生は素晴らしかった。

おかげで、今では「宝の持ち腐れ」になってしまっているが、筆者は「歴史の先生」の資格を持っている(笑)。

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